2016.07.03

「異国」にいるという突然の実感


いまものすごく驚いたことがある。

「えっ、わたし異国にいる!?」

……一ヶ月以上経って何を言っているんだという感じだけれど、なんだか今すごく驚いたのだ。


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さきほど外から何か日本語のような英語のような言葉が聞こえ、耳を澄ましてみた。けれど、続けて聞こえてきたのはやっぱりスペイン語だった(私はスペイン語が話せないのでもちろん何を言っているかわからなかった)。なんだ英語か。でもそりゃそうか。たしかにここはスペインだからみんなスペイン語で話す。スペイン語が母国語だから、スペイン語以外の言葉はほとんど話せない(英語は通じないことが多い)。当たり前すぎることをひとつひとつ考えて、それで驚いてしまった。ここがそんなに異国であるという事実に。
何言ってるか自分でもわからないから(笑)、読んでいる人はなおさらよくわからないと思うけれど、でも実感が急に飛び込んできたとでもいうのだろうか。


考えてみれば、たとえば友人がいま「モロッコに住む。ベルベル語わかんないけど」と言ったら「なぜわざわざ言葉もわからないところに!?!?」と思う。いくら好きでもそれは旅行にしなよ! モロッコじゃなきゃダメな理由がないなら(しかも生活するなら)話せる話せないに関わらず少なくとも英語圏にしなよ! みたいな何かそういう気持ちも湧くと思う。

でも自分もそれと同じなのかと急に気づいた。笑える。「今更?」と自分のなかのもうひとりの自分が呆れている。


ずっとやり取りをしている友人に急いでこの感覚を話したら、「ぼくはさえりさんがスペインに行くといったときから、なんでスペインなのかと心配していたよ」と言われた。みんなは、気づくのがはやい。実感をともなわないと、人は冷静であるうちはしないこともしでかすんだろう。でもやりたいことができなくなるくらいなら、実感なんてしないほうがいい、とも思う。

実感はときにひどい孤独をもたらすし、ときに過度の苦しさや、過度の恐怖を与えてくる。よく考えれば大変なことだ、と気づいてしまったら最後、というようなことは、今までの人生でもたくさんある。そういったものから守るために、わたしは実感に時差をもうけていたんだろう。たぶん。

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以前、スペイン到着直後に書いたブログには、出発前までの自分のことを「とにかく感慨深くなるのを避けていた。これは日常の延長線上なんだ、と言い聞かせていた」と書いている。「実感してしまうことを避けていたのかもしれないけれど」とも。これと同じだと今になって気づく。この1ヶ月もの間、感慨深くなるのを多分避けていた。


最近どうも「実感」を避けているような気がする。怖がって足取りが重くなることを回避しているのかもしれない。今はまだ、今はまだわたしの心に従わせてと、なにかのエネルギーが動く。頭では認識しないうちに心のエネルギーだけで何かがはじまり、何かの渦中にいる。でも、あのとき飛行機でグワッと実感が襲ってきたときと同じように、遅れて頭がようやく状況を「実感」する。異国にいることも、ようやくさっき気づいたんだろう。我ながら、遅い。


周りがあれやこれやと心配していたこの1ヶ月、ずいぶんのんきに生きていたもんだ。それでもこういう自分に少し満足もしている。鈍さが行動を邪魔しないんだったら、ときにはその鈍さも、悪くない。でも、そうか。ここはそんなに異国だったのか。ちょっとだけ、怖くなってきた。影響されやすいんだな、人間って。


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