バレンシアにきて4日目。友人ができた。
数日前Twitterでバレンシアにいる人を探してみたら、メッセージをくれた人が数人いたのだ。
セブ島に行った時も呼びかけたらフォロワーさんが会いにきてくれたし、台湾に行った時もフォロワーさんが取材協力をしてくれた。日本人が少ない街ではあるけれどバレンシアにももしかしたらいるかもしれない、とは思っていた(そして実際にいた!)。なんでも声をかけてみるもんだ。
彼女の名前はFちゃんで、正確にいうと友人から「さえりさんがバレンシアにいる人を探してるよ」と言われたらしく、丁寧にも連絡をくれたのだった(ありがとう)。彼女はとても親切に街のいろいろなことを教えてくれた。必要なスペイン語も。
強い日差しを店内から見ながら、周囲のスペイン語と時に外国語かと思うほどのコテコテの関西弁を聞き、おかげでわたしは「para llevar(持ち帰りで)」を覚えた。あと「No pasa nada.(気にしないで、大丈夫、心配ないよ)」も。どちらも大事な大事なことば。
じつは彼女と会うことを決めた日、同時にFBで”友人ではない人”からも思わぬメッセージが届いた。
スペイン在住のAさん(アルゼンチン人らしい)からのメッセージ。「日本語とスペイン語の言語交流会があるから来ませんか?」というものだった。
なぜ”友人ではない”Aさんからそんなメッセージが届いたのか、というと、わたしの友人であるMさん(スペイン人)がつないでくれたからだった。と、いってもMさんさえもfacebookでの友人で、実際には会ったことがない。
(知らない外国人と友人……?)という声が聞こえてきそうだけれど、詳しい話は2011年までさかのぼる。
当時わたしは21歳で、一人暮らしをはじめて2年経っているにも関わらずさみしくてさみしくて一人でいられなかった。いまでこそこんなに一人がだいすきだけれど、もともとは大学が終わっても家に帰ることができなかった。かといって友人もそう多くなく、頼りにできる”ボーイフレンド”なんてものもなく、一人さみしく駅のベンチで泣いた。人に頼るのが、いまよりも下手だった。
そんなときに当時お付き合いしていた恋人と別れ、物理的にもさらにさみしくなった。幾度か過呼吸になり、部屋で泣いていると2時間が経ち、心の病というほどではないもののどうにもこうにも自分を立て直せなかった。
それで気持ちを紛らわすために走ったのが、語学勉強だったのだ(我ながら素晴らしい発散方法!)。
「海外の人とつながるにはどうしたらいいか?」を考えた結果、はじめたのがFacebookだった。
「日本語を勉強している」という外国人の集まるコミュニティを探し出し、たくさんの人にメッセージを送った。特に英語よりもスペイン語が楽しそうだと安易に考え、スペイン人には多く声をかけた。わたしのfacebookに会ったことのない外国人が多くいるのはそれが理由で、全世界に友人がいる。スペインをはじめとして、アメリカ、トルコ、フィリピン、オランダ、ドイツ、イタリア。たくさんの友人ができた。実際に、日本に遊びに来た人までいる。
何人もの友人と毎日メッセージを交わした。といってもわたしは外国語が得意ではないので、壊滅的な英語で、またはもっと壊滅的なスペイン語で。
そこでできた友人のひとりが、バレンシアに住むMさんだった。
今回の滞在先は「デンマークかベルギーかスペインのセビリヤやバレンシア」と思っていたのだけれど(全部、”行ってみたい”または”行ったことがあるけど良かった”などの安易な理由)、結局気候の面でも利便性の面でも「バレンシアがいいんじゃないか」と思った時、思い当たったのがMさんだった。
すでにメッセージを交わした頃から5年も経ち、語学勉強もすっかり辞めていたけれど、今回連絡をしたらきちんと覚えていてくれた。それでおそらく、彼女の日本好きの友人にわたしのことを話してくれてAさんから「言語交流会」に誘ってもらえたのだった。
Mさんともそこで初めての対面!というほどうまくはいかず、残念ながら彼女は来れなかった。
でも。Mさんがいたから、スペイン人の友人ができた(交流会には2名スペイン語ができる日本人もきて、Fちゃん含め3名もスペイン語が話せる日本人の友人もできた)。
スペイン人の彼らはとても勉強熱心で、息継ぎをする間も惜しそうに日本語を話そうとしてくれる。そこまで日本語が上手でない人たちも一生懸命に日本語を話そうとする。わたしは覚えたての数個のスペイン語単語を外国人らしくバラバラに並べて彼らを笑わせ(もちろん故意ではないが)、彼らと一緒に笑った。
あの頃、恋人と別れたさみしさの発散として”ボーイフレンド”を作る方に労力を割かず、facebookをはじめたわたしを少し誇らしく思う(勉強を続けていればもっとよかったなんて贅沢は言わないようにしよう)。
ここ数ヶ月、いや人生において、ほんとうに数々の点が次々に線になっていく。
それはきっと「いつかこうなりたい」を思い描いてきたからかもしれない。……などと言う気はなく、人間年を重ねれば、多かれ少なかれそういうふうになっていくものなんだろう。みんな同じようなーそれでいて”なんて特別で素晴らしい人生なんだろう”と感じられるようなー感覚を味わっているはずだと思うし、どれだけありふれた出来事であってもやっぱりこういう感覚は特別で、素晴らしい。
あのころ辛さを糧に振りまいた出来事がこんなふうに思わぬたのしみをもたらしてくるなんて、「これが人生よ、少しは楽しいでしょう」と言われているような気がしてならずやや悔しい気もするけれど、思惑に乗っかって何が起きるかわからない日々を生きるのも悪くない。
今日はスペイン人のJとご飯、明日はFちゃんたちとご飯。
この経験がまた、いつかなにかを連れてくるのかもしれない(し、そうじゃないかもしれない)。どうなるかわからないまま年を重ねていくのが、またひとつたのしみになった。
帰国までにMさんに会って、ありきたりで特別な出来事をいっしょに喜ぼうと思う。それまでに「2011年のメッセージがこんな風につながるなんてね!」と言えるようになっておきたい。あの頃よりもっと壊滅的なスペイン語で構わないから。