2016.06.02

どこにいても伸びやかに優しく


2年前にアンダルシアを一人で旅行したときにも思ったことなのだけど、スペインで出会う人たちはみんなとても親切で優しい。
最初は険しい顔でなにかを話しかけてくる様子をみて「怒っているんじゃないか」と思ったこともあったけれど、顔が険しいのは日差しのせいだということもわたしはもう知っている(この日差しのなかでは、わたしも普段見せないくらい険しい顔になる)。


もちろん中には、明らかにスペイン語がわからないわたしに向かってジェスチャーもなしで何かを怒鳴るように告げ、わたしをおいてバスを発車させようとしたおじさんもいたけれど、どこの国のどんな人にでも苛立ちや面倒臭さのほうが優先してしまう気分の時があるのは当たり前のことで、だからそういうことがあってもわたしはやっぱりここに住む人は親切だ、と思う。

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どこかの国と比較できるほどわたしは世界を旅していないけれど、でもスペインをうろついていると色々な親切に出くわす。
たとえばホテルに着いた時、入り口がわからずうろついていたわたしにおばちゃんが近づいてきて何かを聞いてくれた。でもそれは恐ろしく早いスペイン語で「わからない」とも告げられず戸惑っていると「中国人?日本人?」とおばちゃんは聞く(なんとか聞き取れた)。


「日本人」と答えると「中国人なら知ってる」と隣の店にいる中国人のところへ連れて行ってくれた。もちろんそれは何の解決にもならず、その中国人もまたスペイン語と中国語しか話せなかったためにわたしたちは大混乱に陥ったけれど、携帯の翻訳機能を使いながらトラブルを説明し、その人はわざわざホテルの人に電話をしてくれた。


その一回限りではなく、ここでは「道に迷っている外国人」にわざわざ話しかけにきてくれる。こちらが聞くに聞けず、自力でどうにもならないことをほんのりと悟りながらもひとり地図とにらめっこしていると、近くで立ち話していたおばちゃんが「どうしたの」と話しかけてくれる。


その瞬間から恐ろしく早いスペイン語なので、「わかりません」というジェスチャーをすると、彼らはゆっくりと大きな声で、スペイン語を話してくれる。これも同じように何の解決にもならないのだけれど、何だかとても嬉しくなる。こんな身元も言葉もわからないアジア人のためにわざわざありがとう、と心の底から思う。
わたしは片言で「グラシアス」と告げて、おばちゃんが指差した方向へと歩いていく。おばちゃんの話す言葉は何ひとつわからなくても、でもその親切が嬉しい、と心がにこやかになる頃には探していた建物が見つかったりする。

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スーパーで有料のビニール袋を貰おうとして、財布をさぐっていると「あ、もういいよあげる」と袋をくれる。クレジットカードのサインをしていると「漢字ってビューティフルだね」と言ってくれる。メニューがわからず「Si(yes)」と適当に答えていると笑って「OK」と言ってくれる。

言葉がわからないわたしに向かって、「厄介だ」という仕草は見せずに、親切に声をかけてくれる彼ら。

心の時間がゆったりしているんじゃないか、とわたしは思う。時間がない、急いでいるときに言葉の通じない外国人に自分から話し掛けようなんて、やっぱり思えないもの。わたしだったら「厄介ごと」と思ってしまうかもしれない。または恥ずかしさと自信のなさから話しかけるのをやめるかもしれない。大事なのはそんなことじゃないのに。

みんなが親切なこと、それはここがスペインだから、というのは理由にならないとも思う。もちろん国民性というものは存在するけれど、「スペインの人は親切なんだね」と言っているだけじゃダメなんじゃないかしら。

どこにいても、人に親切にしたくなるような心の時間を、わたしも持っていたい。少し丁寧に教えたり、少し優しい言葉をかけたり、正直に褒めたり、一手間かけたり。

おかげでわたしも、ありがとう、美味しい、かわいい、きれい、素敵、うれしい。そんな単語から先に覚えた。その後の言葉は通じないしわからないけれど、そんな一言をせめて伝えられるように。

自分の心が伸びやかであることは、人にも優しくなれるということなんだろう。とても簡単で、忘れがちなこと。どこにいても、誰を前にしても、優しくありたい。


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