自分でもいやになるくらい、人にやさしくできないときがある。
やさしくしたいと思うのに、それができなくて
なんだかツンケンした物の言い方になってしまったり、
年配の人をみて「席を譲ったほうがいいかな」と頭の端で思いながらも寝たふりをしてしまったり。
さらに人にやさしくできないボルテージが高まると、悲しいことに相手の好意をないがしろにしてしまうことさえある。
わざわざくれた連絡をほったらかしにしてしまったり、
せっかく気を使ってくれた人に、言わなくていいことまで吐露してしまったり。
相手のあまり良いとは言えない反応をみて、はたと気づく。
「やってしまった」
結局その直後に自己嫌悪の荒波に飲まれることになるのだけれど、その瞬間はどうしてこうも気づかずに、こんなに簡単に過ぎてしまうんだろう。
……人にやさしくしたくなるときの心の動きはよく覚えている。
自分の心の中は、濁りなく澄み渡っているような静けさがあって、ぬるま湯の中みたいに気持ちのいい柔らかな感覚に浸っていく。そうして、物事がひとつずつ静かに見えるようになる。
ひとつひとつ丁寧に見ていると、それらの面白さに気づく。不思議さに気づく。よいところに気づく。
わたしはそのときすでに暖かな気持ちなので、ひとつひとつの出来事が愛おしく、すこし「ん?」と思うようなところも「まあ、それもひとつの特徴よね」と微笑んでいられる。
ぽこぽこと水が湧き出るときのように、出来事の細部まで愛でられるような余裕が徐々にあふれてくる。
心も体も軽やかなので、人にも席が譲れるし、一手間かけておばあちゃんに手紙なんかも書いちゃう。
次々にあたたかい気持ちが湧いてきて、それこそが自分に心地よく、それゆえに人にもやさしくできる。そう、あのかんじ。
結局、自分の気持ちに余裕がなければ、人にやさしくすることなんてできないんじゃないかと思う。自分の心が荒波の中、人に”頑張って”やさしくすることはできるけれど、ちょっと思い通りに進まなくなるとすぐに焦ってしまうし、もしかしてそういう時に人によっては「やさしくしたのに」なんて悲しい言葉を吐くようなことにもなりかねないのかもしれない。
やさしくしたから何かあるだろうとか、
やさしくしてるんだから褒められてしかるべきだとか、
自分が”やさしさ”を頑張れば頑張るほどに、やさしさは純度を失っていくんじゃないかな。
……そもそもわたしは、どんな場合でも人にやさしくしよう、と思って徹底できるほどストイックではないし、自分の心身を削っているときに微笑んでいられる気がしない。
それだったら。
自分の心を整えるのが先だ。
自分の心を整えて、心に隙間のある(余裕のある)生活を送れるようになれば、先に述べたみたいに、湧き水がぽこぽこ出てくるようにやさしい気持ちが湧いてくるはずだ。
ぽこぽこぽこぽこ湧いてくれば、水たまりができて、泉になっていく。
その水がひたひたと行き渡るせめてその範囲だけでも、やさしい気持ちで包むことができるはず。
最近、人にやさしくなれないなと思うことがよくある。自分の湧き水の入り口がもしかしたら詰まっているのかもしれない。
少しでもいいから、整える。…ちょっと意識してみよう。
この週末は、そういうことをぼやっと思った土日になった。
そういえば、そんなときにおすすめな方法を思いついたんだった。
日々の生活を何気なく送ってしまうと、なんの意図もなしに余裕が奪われてしまうから、 そういうときのとっておきの方法。今日は寝る前に試してみよう。
寝る前に、自分にとってのしあわせな言葉たちを思いつく限り日記に書く。たとえば「おだやか」「やさしい」「ぽかぽか」「そよ風」「水の音」……。 頭をひねってたくさん出す。無理やりにでも出す。そうすると、あら不思議ー!幸せぽかぽかな気持ちで眠れます。お疲れ気味の人にこそ、おすすめ。
— さえりさん (@N908Sa) 2015, 3月 30
生きているだけで余裕が失われていくなんて不思議な話だけど、 すきな言葉を思いつく限りひねり出すだけで、ほんの少し幸せな気持ちになって、それでやさしさが湧いてくるんだったら。
今夜はそうして過ごしてみよう。